2011年12月30日金曜日

関口房朗とは一体何であったのか?【フサイチの馬主】

成金丸出しで、顔もいかにもっていう感じの悪オヤジで、カッコよく、金の使い方が下品だったので、その存在が好きでしたね。私は競馬をやらないんですが、競馬好きの友人によると、「自分が裸一貫からのし上がった人間なので、貧乏人を馬鹿にするような発言はしませんでした」という言うことですし、競馬界への貢献度はそれはもう大きかったと。そして、会社を追い出されても這い上がる姿、ある意味では、尊敬に値しますよ。こんな人が今もたくさんいたら、日本経済も違っていただろうなと・・・・。

役員会議室の机がサミットで使われた机とか、ビルが金色だとかの設備面だけでなく、ボブサップを入社式で呼んだりとか、フェラーリやマイバッハで乗りつけたりして、話題性には事欠きませんでしたね。あと、有名なのは馬主としてですかね。いま何やってんのかな??と思います。

この人は、会社追い出されても、また自分で別の会社を作って這い上がってきて、相当、芯の太い人だと思うんですよ。世が世なら、こういう人が再起をできていたんですけどね。


●関口房朗

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%8F%A3%E6%88%BF%...

関口 房朗(日本中央競馬会の馬主登録ではせきぐち ふさろう、その他の場面での自称はせきぐち ふさお。1935年12月20日 - )は実業家、競走馬馬主。兵庫県尼崎市出身。血液型はA型。通称は「フサロー」、「フサリー」(ネット上)。コリン・パウエル元アメリカ合衆国国務長官と親しいことで知られる。次男は株式会社ゲイン代表取締役の関口千房。

目次 [非表示]

1 経歴

2 馬主として

2.1 代表所有馬

3 脚注

4 著書

5 外部リンク

経歴 [編集]

尼崎市立尼崎産業高等学校を中退後、2年ほど個人経営の運送業を営むが、腰の支障により体を崩し廃業。その後、実家の工場「関口工業技術」の営業として勤務。1961年に、名古屋に移り「関口工業技術」名古屋出張所長になる。1963年に関西精器を設立し、代表取締役社長に就任するが、1973年に倒産。1974年に技術系アウトソーシング(人材派遣)の草分けとなる「株式会社名古屋技術センター」(現・株式会社メイテック)を設立。1980年に代表取締役社長に就任。会社が軌道に乗り始めると、競走馬の馬主資格を手に入れ、「房朗が一番」を意味する「フサイチ」の冠名の競走馬を多数所有するようになる。

1996年に所有する競走馬・フサイチコンコルドが日本ダービーを勝利した直後、メイテック社長を電撃的に解任され[1]、翌年(1997年)に東京に技術系アウトソーシングの新会社「株式会社ベンチャーセーフネット(2004年から株式会社VSN)」を立ち上げ、会長に就任する。

同社では1999年の入社式で闘牛を実施したり[2]、2004年の入社式に格闘家ボブ・サップを招待し、自ら「マスクド・F」としてサップと対戦したりするなど、時代の流行を取り入れた社内イベントを積極的に展開することで注目された。またテレビ出演も頻繁に行い「ミスター大盤振る舞い」とも呼ばれた。しかし、1999年8月に新入社員1300人に対して一時帰休させ、2001年8月には待機社員を整理解雇させたことが明らかになっている。


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